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裕次郎と日活アクション映画の幕開け

1956年(昭和31年)、湘南地方を本拠とする富裕層の若者風俗を題材とした、兄石原慎太郎の芥川賞受賞作品「太陽の季節(監督:古川卓巳)」の映画化が切っ掛けであった。

秘匿されていた性の開放を主題とした原作は、若者世代の潮流に合致し、『慎太郎』を社会現象にまでしていった。『慎太郎刈り』と称された髪型に派手なアロハシャツを纏った、小説のタイトルから命名された『太陽族』が闊歩していた時代であった。映画「太陽の季節」で本家本元の太陽族として、雰囲気所作言語指導で、素を晒した数カットから話題を集めたのが石原裕次郎であった。折からのブームと可能性の感触から、主演作品「狂った果実(監督:中平康)」が制作される事になる。この辺りの経緯は最早『裕次郎伝説』となって、巷間に語り継がれている。

そして、思いの他の集客に主演作が次々と企画され、その作品が尽く日活の数字を塗り替える様な観客動員を記録し、瞬く間に日活を隆盛に導いて行った。敗戦国日本の『戦争を定かに知らない子供達』が平和を享受し、自己を主張し始めた時代に表れるべくして表れた、将に時代を体現、若しくは時代が追従していたのが石原裕次郎であった。

 『それまでの映画は子供じみた娯楽作だったり、飽きが来たメロドラマだったりで、巨匠たちは私小説的な世界に閉じ篭っていた。戦後10年以上経ち、人々は、画面からはみ出る様なバイタリティ溢れる作品を望んでいたのです。その時代にピッタリ合ったのが裕次郎でした』と井上梅次監督は述懐する。同監督作品「鷲と鷹」「勝利者」「嵐を呼ぶ男」が、たて続けに公開されたのは翌57年であった。そのいずれもが日活アクション映画のハブとなった作品で、裕次郎と言う原石から日活アクション映画の鉱脈を掘り当てた日活の黄金時代が、小林旭の『アキラ』たる猛追する人気を伴って幕を開ける事になる。

時代が待望した裕次郎初期作品・・・・

日活アクション映画の勝手な定義

映画界自体が隆盛期に在り、日活も裕次郎で安定期に入った60年代から日活アクション映画は、無法治雑風俗の『無国籍アクション』と揶揄される作品が制作本数の比重を増していた。将にその名に値する通りの荒唐無稽な物語を、特異で独自な異次空間に創造出現させた、社会的認知には程遠いものであった。この傾向は裕次郎が体現した若者特有の論拠を持たない、感覚的に共通した反体制や反社会性の願望や憧憬から来たものであろう。自由に行動し自由にものを言う、そんな裕次郎の具現を増進深化させ、空間をも自由に創造させたのが、ここで言う日活アクション映画としたい。そして、無国籍に該当する作品ばかりでない事は無論であるが、日活アクション映画は裕次郎、そして稀代のエンタティナーアキラの「南国土佐を後にして(監督:斎藤武市)」から発展した「渡り鳥シリーズ」辺りから始まるアクション作品群を、ここでは日活アクション映画の範囲と定義したい。

渡り鳥を核としてアキラの流れ者、旋風児、風来坊・・・・

日活アクション映画の存在意義

「渡り鳥シリーズ」の生みの親斎藤武市監督が、『日活自体が寄せ集め部隊、伝統に縛られないから、どんな内容も許された。他社では決して生れなかったでしょう』と、その誕生を語っている。亦、日活アクション映画の歴史そのものの様に多くの、全期に亘って出演作を持つ宍戸錠は、『無国籍と呼ばれたって嫌な気はしなかった、だって、それは逆に言えば国際的と言う事。虚構の上に虚構を重ねて、無理やり観客を引き込んで行く。それは本当に大変な事なンです』と、その隆盛継続の苦心を言い得ている。

模倣、創造された悪場所に展開される社会的認知に程遠いと言う異端的位置が、むしろ日活アクション映画の魅力であり、最大の存在理由であった。

アクション映画を暴力的活劇と限定した場合、描かれる世界は必然的に、アウトローの関係する世界、裏社会に近附かざるを得ない。実生活で暴力的要素のある場面に遭遇する事が稀有な、一般的社会生活を送る表社会の多くの者にとって、裏社会若しくはそれに近いところで描かれるアウトローアクションのヒーローは反面の憧憬であり、カタルシスに他ならない。そこに正義が存在する時は勿論であるが、その正義が無くとも一抹の自己投影感情移入を見出せるものがあれば、ひと時の自己陶酔に浸ることが出来る擬似空間が日活アクション映画であった。

世俗に揉まれ些細やかな自己顕示さえ持てない、多くの小市民にとって、主人公が失われた自己を復権、回復あるいは奪回する紫煙の立ち込める銀幕世界は、自己投影し陶酔するに充分な異次空間であり、現実逃避を超えた理想郷ですらあった。その第一歩が館内禁煙サインの無視であり、くゆる紫煙の銀幕は裏社会擬似空間への入り口でもあった。

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