大利根無情(昭和34年) テイチクレコード 作詩:猪俣良 作曲:長津義司 1.利根の 利根の川風 よしきりの 声が冷たく身をせめる これが浮世か 見てはいけない 西空見れば 江戸へ 江戸へ ひと刷毛あかね雲 「佐原囃子が聴えてくらァ 想い出すなァー御玉ヶ池の千葉道場か うふ・・平手造酒も今じゃやくざの用心棒 人生裏街道の枯落葉か」 2.義理の 義理の夜風に さらされて 月よお前も泣きたかろ こころみだれて 抜いたすすきを 奥歯で噛んだ 男 男 泪の落し差し 「止めて下さるな妙心殿 落ちぶれ果てても平手は武士じゃ 男の散りぎわだけは知って居り申す 行かねばならぬそこをどいて下され 行かねばならぬのだ」 3.瞼 瞼ぬらして 大利根の 水に流した夢いくつ 息をころして 地獄まいりの 冷酒のめば 鐘が 鐘が 鳴る鳴る妙円寺
「天保水滸伝」として名高く、浪曲や講談で巷間に伝わるやくざの喧嘩に散った、労咳の素浪人平手造酒を歌った三波春夫の傑作歌謡曲。浪曲の節回しを歌謡曲に融合させ、本格的な台詞を採り入れた当時としては斬新なもので、以降「台詞入り歌謡曲」は三波春夫の専有世界ともなり、「曾我物語」から始まる「長編歌謡浪曲」の基ともなった。
『今、西の彼方に沈まんとする夕陽は真紅に輝き、満々たる水を湛えて流れる坂東太郎に昔を偲べば、時に天保十二年深み行く秋九月、剣豪平手造酒は江戸を流れて下総へ、川風の吹くに任せた鬢のほつれに、悲しい人間の宿命が静かに忍び寄っていた。(朝日ソノラマ刊大利根長恨歌より・・・・但し朧に辿った記憶)』。
英語を習い始めたばかりの生意気盛りの中学生に、『I must go!』の名台詞は心地よく入り込み、今を盛りと咲き誇っていた「日活青春映画」や「ポップス歌謡」の高みにあった。「御三家(橋幸夫舟木一夫 西郷輝彦)」よりは断然、「肺病御三家(平手造酒 沖田総司 ドク・ホリディ)」であった。
「天保水滸伝」は笹川の繁蔵と飯岡の助五郎との縄張り争いで、天保十五年(1844)に大利根の河原で最初の抗争が起ったとされる。
下総国須賀山村(現:香取郡東庄町)の醤油と酢の醸造を生業とした旧家に生まれた繁蔵は、文武に優れてもいたが博打にも長け、芝宿の文吉から譲り受けた縄張りを基に笹川一家を張る事になる。一方の助五郎は相模国(現:横須賀市)から流れて来た者ながら、飯岡の漁港で網元として一家を成し、二束の草鞋を履く博徒の親分として、繁蔵と同じ下総一帯に勢力を誇っていた。
国定忠治や清水次郎長ら諸国の親分衆が参集したと言う「十一屋」の花会を繁蔵が仕切り、勢力を増すに従い助五郎との軋轢が増すのは当然で、と言った背景からの縄張り争いであった。忠治や次郎長が来合わせたか否かは定かではないが、そして繁蔵助五郎らやくざ者としての正邪などと共に、浪曲や講談そして映画や芝居、小説などに表わされる度に脚色された尾鰭も夥多とある。「大利根無情」の主人公、平手造酒にも異聞は勿論あり、それが伝聞される水滸伝を面白くもしている